
『龍宮』 川上弘美 読了。
ふと魔が差して手に取り、読み始めるとじわじわと効いてくる。
魔が差すというのはあまり良い言葉ではないので、作家やファンがこれを読んだら怒りだすかもしれないが、ごめんなさい、悪気はないんです。魔が差す=「ふと,邪念が起こる。出来心を起こす」と辞書にあるが、ぼくとしては確かに、つい出来心で川上弘美の本を手に取ってしまう(本屋で万引きする、ということではないからね、念のため)というような感じがするのである。あるいは、邪念というような明確な禍々しさを放つものではなく、もっとこうぼやぼやして得体のしれぬもの、軽くてふわふわして見えるような見えないような、触れたような触れなかったような、そういう「魔」と称するほかないようなものに、不意に飛びつかれ取り憑かれたような感覚。むろん、そんな魔物だから飛びつかれても痛くも苦しくもない。いやむしろ、くすぐったいような楽しいような何ともつかみどころがなく茫洋とした快感を与えてくれる、取り憑かれても決して悪い気のしない魔物なのである。
そして、この得も言われぬ快感は、読み進めるうち本当にじわじわと効いてくる。喩えるなら、言わば温泉に浸かっているような感覚だろうか。
じわじわと効いてくるわけだから、がつがつと読み漁るようなことはしない。そういう意味で、(前にも書いたが)ぼくは川上弘美のあまり熱心な読者ではない。熱心ではないが、しかし無視して素通りもできず、ある日ふと魔が差してつい手に取り読み始めてしまうのである。おや、感想が堂々巡りをし始めたようだ……さっき通り過ぎたはずの場所にまた舞い戻ってしまった……まるで狐につままれたような心地。
もっとも、快感とは書いたが、実はこの短編集、結構不気味な怖さもないわけではない。もちろん、ホラーというようなことではなくて、自分の身体の一番奥底に沈んでいるある種の生々しい寂寥感が呼び覚まされるような感覚なのだ。とても深い記憶が掘り起こされる気がして、懐かしさすら覚えるくらいだ。だがその懐かしい記憶は、生まれて以後の体験から来るものではなく、生命の記憶として生まれる以前より刷り込まれていた、そういう原始的なもののようだ。
一番印象に残ったのは「鼹鼠(うごろもち)」。そもそもこの標題の語自体ぼくは初めて知った(土竜の異名だそうだが、モグラで変換してこの字 ─ 鼹鼠 ─ が出てきたのには驚いた。Unicode だから、環境によっては文字化けしてると思いますが)。題はともかく内容もなかなかアレであり、もしかしたらぼくもいずれアレになって鼹鼠に拾われるかもしれないなどと考えたら、よけい背筋が寒く感じる。
次いで「轟(とどろ)」「海馬(かいば)」が良かった。海馬も、タツノオトシゴのことだというのは知っていたが、改めて辞書を引けば、他にもトドだのセイウチだのと書いてあるのだから面白い(川村二郎の解説によれば、ジュゴンのことさえ示すそうだから、まさしくこの海から来た「人にあらざるもの」を表すのに相応しい)。
残りの短編もそれぞれに優れた質の高い作品で、こういう異形のものが登場する奇妙な話を好むぼくとしては、大満足なり。
⇒ 川上弘美自身による本書紹介「少しおかしくて、だんだんさみしい。」
» amazon.co.jp 『龍宮』


『東京の空間人類学』 陣内秀信 読了。
都市というものに対するある漠然とした興味の持続から、たまにこういう本が読みたくなる。その前に読んだのが確かコールハースの『錯乱のニューヨーク』だから、もう2年以上経つのか。道理で虫が騒ぎだす筈。
東京はかつて水の都だった──まだ江戸と呼ばれていた頃の話。あるいはまた、江戸時代の東京は、世界最大の人口を誇る都市だった──東京は、およそ400年の歴史を持つ都市だ。そこそこ長い歴史を持っているくせに、古い建物が殆ど残っていない特異な都市でもある。大火、震災、空襲と、幾度も災害に見舞われ、そして復興を遂げる度に、新しい表層を身に纏ってきた都市。一見、都市としての明快な輪郭を持たず、渾沌とした力のなすがままに変容してきたかのような東京にも、しかし実は江戸時代から続く場(トポス)の文脈(コンテクスト)が、連綿と息づいている。明治以来、西洋を範として発展してきつつも、しかし江戸以来の日本的な都市の感性が生き残り、今日でもなお根底において東京の活力を支えているのである。
85年サントリー学芸賞受賞作の文庫版。解説は川本三郎。これは名著だ。東京再考には必携の一冊。同じ著者による『東京』と併せて読むと、より面白さが倍増する。(ぼくが所有しているのは単行本だが、これもいつのまにか文庫化されていたとは。Amazonリンクは文庫の方)
都市についての参考サイト⇒ 「時間都市事典」より「江戸(東京)」
» amazon.co.jp 『東京の空間人類学』
» amazon.co.jp 『世界の都市の物語12 東京』



『聖岩 Holy Rock』 日野啓三 読了。
10/14の命日から、枕元において少しずつ読み進めてきた本。購入したのはおそらく刊行当初の95年かあるいは96年だ。確かぼくが日野啓三に嵌まったのはこの頃だった。まだ東横線沿線に住んでいた頃に買い求めたらしく、今ではもう行かなくなった渋谷の大盛堂書店のカバー(「日本で最初の本のデパート」って書いてある)が付いていた。懐かしいなあ。なぜ今まで読んでいなかったかというと、日野氏の他の小説を読むのに忙しく、月日が経つうち、その後『遥かなるものの呼ぶ声』と改題され刊行された文庫本の方を読んでしまったから。だから全くの初読というわけではない。ただ文庫本の方はいかなる都合からか、「プロローグ」と「塩塊」の二篇、それに著者撮影の写真などが削られてしまっている。備忘のために比較表を下に置いておく。なお、この本と一緒に『ユーラシアの風景』の幾つかの章も併せて読んだ。そうそう、単行本の表紙の写真は本書「塩塊」と「石を運ぶ」の中に言及されている写真家リチャード・ミズラックの作品だということも、忘れずに書いておこう。
これは風景と思念とが一体になった小説。人間の小説というよりも、惑星の小説、あるいは宇宙的な小説。古代の漢詩の、世界を愛でる清冽な透明感にどこか似通ったニュアンスを持つ、一種独特の、あの日野啓三の視線が、この本からも感じられる。「世界は荒涼と美しい」という言葉のままに。
「ああ、私は世界が好きだったなあ」というような科白を晩年の日野啓三がどこかに書いていなかったか。確かな記憶ではないのだが、しかし本書を読みながら、何度もぼくの頭の中に蘇った科白でもあった。
2005/12/7追記 上の言葉は文庫『遥かなるものの呼ぶ声』のあとがきの中にありました。まったく我ながら間抜けな話。「本書を読みながら、何度もぼくの頭の中に蘇った」……そりゃそうだろう。
» amazon.co.jp 『聖岩(ホーリー・ロック)』
» amazon.co.jp 『遥かなるものの呼ぶ声』
» amazon.co.jp 『ユーラシアの風景—世界の記憶を辿る』
| 聖岩 Holy Rock | 遥かなるものの呼ぶ声 | 備考(場所等) |
|---|---|---|
| プロローグ 心の隅の小さな風景 | − | ポプラ オアシス 踏切 |
| 塩塊 | − | 金沢 グレートソルトレーク |
| 聖岩 | 示現(エピファニー) | エアーズ・ロック |
| 幻影と記号 | 聖記号 | トルコ カッパドキア |
| 古都 | 古都 | 杭州 |
| 遥かなるものの呼ぶ声 | 遥かなるものの呼ぶ声 | タクラマカン砂漠 |
| カラスのいる神殿 | カラスのいる神殿 | 病院 |
| 石を運ぶ | 顔のない「私」 | 大湯環状列石 ストーン・ヘンジ |
| 火星の青い花 | 火星の青い花 | 火星 |
追記1:上の表を作りながら思ったのだが、「塩塊」が文庫本から削られたのは、その主題が他の作品よりも、場所との関連性が薄いせいかもしれない。この短編だけは、場所よりもむしろ、ソルトレークから来た作家との交流が主眼となっているから、他の短編と微妙に位相のズレがあるという見方もできる。
追記2:文庫版では「古都」と「遥かなるものの呼ぶ声」の順番も入れ替わっており、後者が先になっている。

『ディアスポラ』 グレッグ・イーガン 山岸真 訳 読了。
イーガンは天才だ。現代物理学を操ってこれほどもっともらしいSFを書ける作家などまず他にはいないだろう。もちろんぼくにはその創作上の理論の粗探しをして欠陥を指摘できる能力など持ち合わせてはいないが、時間的にも空間的にも壮大なスケールのまことしやかな大法螺話で、これぞSFの醍醐味。
SFにはしばしばユートピアが出現する。(この小説の重要な舞台設定である)「ポリス」も、ひとつの理想郷の実現ではある。肉体と死から開放され、自分の興味のあることだけ望むままに集中して生きてゆける生活。睡眠も食事も排泄もセックスも必要ないのだ(もちろんそれを望めばそこから得られる快楽を享受することもできる)。小説中には全く言及されていなかったから、おそらく経済や権力の支配からも開放されているのだろう。肉体や死から開放された時点で、それらは全く無意味なシステムとなるだろうから。もっとも「ポリス連合」などという単語が使われている以上、全く政治的なものがないわけでもないのだろうが、しかしそれは権力システムというよりはむしろ理念によって結びついた集合と捉えるべきであって、望みさえすれば移住するのも自由らしいから、完全に束縛されているわけでもない。それでも、親の干渉と、それによる子供の不満はなくならないらしいが(これには笑える)。
ところで p.386 で「オーランドは、自分が耳も言葉も目も不自由なほうがよかったとかなんとかぶつくさいった。」とあるのは、The Who の "Pinball Wizard" のことじゃないかと思ったんだけど、どうなんだろう。("Pinball Wizard" といえば、来年ブロードウェイ・ミュージカル "Tommy" が来日するんだとか。なんとまあ)
「訳者あとがき」に書いてあった参考サイト
⇒ Greg Egan's Home Page/DIASPORA
⇒ JGeek Log/ディアスポラ数理研
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『終着の浜辺』 J・G・バラード 伊藤哲 訳 読了。
つい最近復刊されたバラードの短編集。こういう作品が読めるのは嬉しい。他のバラード作品もぜひもっと復刊してほしい。『時間都市』とか『燃える世界』とか読んでみたいのだけど(三年前くらいだったか、オンラインの古書店で見つけて注文したけど結局売り切れで手に入らなかったという経緯がある)、何とかしてくれないかな、創元社さん。
それにしても、バラードの作品は、終末の寂寥感が漂っていて、ひたすら静謐で孤独だ。しかもそれらが全く感傷的でなく、叙情的ですらなく、淡々と叙事的・散文的に記述されている。どれも決して読んで明るい気分になれる作品ではないが、特に標題作の「終着の浜辺」は原水爆実験場跡を彷徨う描写に、心暗く惹かれるものがあった。また、個人的な好みでは「甦る海」がもっとも好きだ。が、「ゴダード氏最後の世界」「時間の墓標」「マイナス 1」「ある日の午後、突然に」なども、それぞれ特異な印象が読後残った。これは確かに復刊されるだけのことはある!
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「イサム・ノグチ展」 東京都現代美術館
イサム・ノグチが好きかと聞かれても、よくはわからない。ぼくは普段あまり彫刻家の作品を見に行くようなことはない。彫刻家と言えば、イサム・ノグチ以外にはせいぜいロダンとか高村光雲・光太郎の名を思い浮かべることがあるくらいだ。あとはミケランジェロか。しかしミケランジェロは画家でも建築家でもあったしなあ。
ではつまらなかったかと聞かれれば、いやいやすごく面白かったと答える。抽象彫刻は面白い。──彫刻の優劣はわからないから、仮にイサム・ノグチの作品じゃなかったとしても、たぶん楽しむことができたかもしれないが──ともかく面白かったのだ。
では何が面白かったのかと聞かれれば、それは抽象的な造形ゆえの、見る者に様々な想像を喚起させるところが面白かったのだと答える。
立体は、絵画と違って、その周囲360度のどこからでも見ることができ、しかもその角度によって様々に表情を変える。ある角度では奇妙に複雑な形態になるかと思うと、別の角度では驚くほどシンプルな輪郭を見せる。思わず息を呑むような変容。時には何か見慣れた具象物に不思議と似ていたり、しかしちょっと視線をずらすともうその形は消えてしまっている。隠された面が現れ、見えていた面は奥に隠れる。
あるいはそのバランスやテクスチャや微妙な遠近。磨きこまれた真鍮の作品では、そこに映し込まれる歪んだ周囲の像(自分や他の観客達の姿など)さえも、造形に生気を与え、作品の移ろいゆく表情の一部として機能する。
それに陰影。恐らく照明の僅かな位置のズレさえ鋭敏に影響している筈だ。だから、もし作品が別の場所に移動されてしまったら、それはもうぼくが今日見た作品とはまるで違う風に見えるだろう。その証拠に図録を確認すると、それは違う場所で撮影されたものらしく、ぼくが見たものとはまるで雰囲気が変わってしまっている。そしてぼくは図録よりも、自分の肉眼で見た像の方が遥かに優れているとさえ信じ込んでしまう。
そう、彫刻作品が面白いのは、自分の好みのアングルを自分で探し出して鑑賞できることだというのも、ぼくにとっては大きな理由のひとつである。そしてそれはたぶん、他の客達も同じらしい。みんな作品の回りを少なくとも一周はしてみないと気が済まないようなのだ。こういう行動はとても面白いと感じた。とりあえず最低でも一周はしない限り、作品を見た気にならないというのは、やはり立体作品ならではのことだ。隠れた面、見えない面への好奇心を掻き立てられるのだ。
が、それでも皆(これは絵画展でも同じだが)かなり足早に皆過ぎ去ってしまう。あまり長々と一箇所に立ち止まるようなことはない。決して空いていたわけではないが、それほど混雑していたわけでもない。充分立ち止まるゆとりはあったのに。どうしてみんなあんなせっかちなんだろう。
そこでふと思った。なぜわざわざ美術館に彫刻を見に来たのだろうかと。もちろんこれはぼく自身のことも含むわけだが、もしこれらの作品が美術館ではなく街なかにさりげなく設置されていたら、果たしてこうまで注視することがあるだろうか。恐らく一瞬目を止めるか止めないかで、そのまま通り過ぎてしまうのではないだろうか。
見るというのは実は結構意識的な行為なのであり、普段人間の目は(あるいは脳および視覚神経系は)見ようと思う物以外は見えないようにできている。情報は常に何らかのフィルターを通して取捨選択されている。自分の行動にとって重要度の低いものにはあまり注意を払わずにすむようになっているのだ(さもなければ、目に入る物全てについていちいち同様に扱っていたら莫大な量の情報を常に処理しなければならないことになる)。
したがって、街なかの彫刻というのは、大部分の人間にとって単なる目印以上のものではないように思えるのだが、どうだろう。今までぼくは、街なかの彫刻をしげしげと鑑賞し、観察している人など、殆ど見かけたことがない。全くいないわけではないだろうけれど、そのような光景は非常に稀だ。──まあこれは、イサム・ノグチ展とは関係のない、脱線した思考。
特に印象に残った作品をいくつか、備忘のために挙げておこうと思う。
まずは「エイジ」。この作品こそまさしく、見る角度によって劇的に表情を変える造形の代表だ。色・質感・陰影・輪郭がまるで違っているのだ。あまりにも面白くて、かなりしつこく位置を変えながら眺めていたが、全く飽きない。
その表情の複雑さゆえに、この作品はきっと違う場所では全く違う表情を身に纏うだろう。図録に掲載されている写真は、これもまた全く別物とでも言えるような雰囲気になっていて、肉眼で見たものと色も陰影も全く違っている(もちろんそれは写真のせいではない)。この作品は、ただこのひとつだけで、様々な多様性と変容を持った完全な世界として成立している。
正直言って、この作品に触りたくてたまらなかったのだが、誰も触れる者がいなかったので、つい遠慮してしまった。でも、ああいう展示の仕方なら、もしかして触れてもよかったのかもしれない。監視員に確認してみればよかったと、ちょっと悔やんでいる。
それから「この場所」。これは静謐な宇宙だ。敷かれた石の深い存在感と、卵形のくぼみとが、「この場所」に強い重力を齎し、特異点たらしめている。抽象作品においては、ぼくはあまりタイトルを気にしないようにしている(批評家ではないので、作品の解明・解題・分析なんぞ、どうでもいいのである)のだが、この作品だけは、その迫ってくる存在感と題名が、感覚的に完全に符合してしまった。他のタイトルなど全く有り得ないと思えるほどに。
中央のくぼみにはきっと、見えない卵が乗っているのだ。その重みで石はくぼんでいる。または、見えない卵は既に孵化してしまった後かもしれない。その卵から生まれ出てきたのは無論、この我々の宇宙なのだ。
「エナジー・ヴォイド」。今回の展示の目玉作品らしい。高さ3.6mとあるが、数値以上に大きく感じる。吹き抜けのホールに展示してあったのだが、夕陽が差し込んで、この作品を照らしだすのが美しかった。陽光の中でこそ映える作品。巨大なカラビナのようにも、あるいは数字のゼロのようにも、そして作品が捩れているせいで見る角度によっては数字の八(縦に起き上がった無限大のマークだ。それに古代日本でも八は多数の意味だったし)のようにも見える。黒々として、適度に有機的で適度に幾何学的な形態の、一風変わったモノリス(厳密には一枚岩という表現は誤りかもしれないが、その象徴性において「2001年宇宙の旅」のあのモノリスのような、という意味で)のようにも思えた。
「無言の歩み」。作品の展示されている空間の奥行きとシンメトリが、奇妙に印象深かった。この作品は、たぶん、それが置かれる空間を選ぶのだろう。展示の仕方がうまいなと思った(凝っているという意味ではないが)。作品自体の、面のテクスチャと遠近を変え、微妙にシンメトリをずらした構成が、展示空間の丁度よいボリューム(飾り気のない、奥行きのある直方体で、作品にとって広くも狭くもない絶妙のマッス)によって活かされていると思った。
以上が今回のマイ・ベスト・スリーだが、他にも、「足のような木」「レダ」「ミラー」「不思議な鳥」「化身」「フィギュア・イマージング」「メッセンジャー2B」「身ごもった鳥」などなど興味深いものが多数あった。
そうそう、それから「グレゴリー」。ユーモラスな形状の作品だが、この名前はカフカの『変身』の主人公、あのグレーゴル・ザムザの名前から取ったのだそうな。構成部品の組み合わせによって違う形態に「変身」するのだとか。ふむふむ。
というわけで、冒頭にも書いたとおり、とにかく楽しんだのだった。

MUSEUM OF CONTEMPORARY ART, TOKYO

『仮想空間計画』 J・P・ホーガン 大島豊 訳 読了。
AIをボトムアップ式に進化させるため構築されたVR空間。巨大な経済的利益を争う企業内の陰謀により、そのVR中に囚われてしまった科学者の脱出譚。と、とりあえずは要約しておこう。もちろん、小説の面白さは要約できない。
ところでさ、臭覚というのは五感のうちでも最も原初的な感覚なんだってさ。知ってた? ぼくはてっきり触覚だと思っていたのだが違うらしい。だが、言われてみれば最も本能を刺激する感覚は臭覚だよなあ。
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『ホミニッド』 ロバート・J・ソウヤー 内田昌之 訳 読了。
ネアンデルタールって気になるんだよね。ついこの間まで(僅か3万年前くらい)我々とともにこの地球上に棲息していた同属。そしておそらく我々の攻撃性によって絶滅させられてしまった兄弟。
もちろんこの小説は最高のエンターテインメント(ちなみに2003年のヒューゴー賞受賞作である)だけれど、でも我々ホモ・サピエンス(おこがましくも自らそう名付けた種)のことを客観的に(この言葉には自己言及ゆえのパラドックスが含まれてはいるけれど)考えてみるいい材料になる。とはいえ、堅苦しく考えるのではなく、あくまで気楽に楽しみつつ、ということだけれど。様々なアイディアのSF的ギミックも溢れていて、とにかく面白い。初めて読んだ作家だけれど、これは大当り。他の作品も読んでみたいという気になった。
いくつかのキーワードを書き出しておく。量子コンピュータ。他世界解釈(並行宇宙)。大躍進(グレート・リープ・フォワード)。インプラント。ユートピア(パラダイスという意味ではなく、理想的な管理社会という意味での)。などなど。
ああそうそう、副題の「原人」というのはなんだかちょっとなあ。関係ないじゃん。語呂合わせと言われても、どうも釈然としない。
» amazon.co.jp 『ホミニッド』

『エクリチュールの零度』 ロラン・バルト 森本和夫 訳 林好雄 註 読了。
一度読んだだけですべて理解したなどとは口が裂けても言えないが、エクリチュールという概念──ラング(言語体)とスティル(文体)に対する第三項──を用いて、例えば自分自身がこうして書いていることの内部省察を試み始めることは可能だろう。いずれそのような思考について何か書くことがあるかもしれない。
エクリチュールという言葉はカタカナで定着していて、訳語を目にすることがない(ぼくが知らないだけかもしれない)のだが、この訳書(それともバルト流にテクストと言ってみる?)から受け取った限りで、自己流に日本語にしてみると、〈記述形式〉または〈文章形式〉とでもなるだろうか。
どうも読んでいて〈文体〉との差異がよくわからなかったりするのだが、先日読んだ『現代思想のパフォーマンス』と合わせてぼくなりに解釈すると、どうやら今日までぼくが使用していた〈文体〉という言葉・概念が、バルトのいうスティルとエクリチュールに区別されるのではないかと思う。スティルは個に備わるもの(性格・気質・選択不可能)として。エクリチュールはある限定された社会集団に属するもの(記述の形式・様式・選択可能)として。もちろん選択可能というのは記述行為の事前であって、いったん選択してしまえば、それに従わざるを得ない牢獄と化す。選択することの自由はすぐに所属することの不自由さへと移行するのだ──と書くと、まるで就職活動と会社勤務のようでもある(職業選択の自由と、入社以降の忠誠・服従・隷従)。あるいは、恋人(または結婚相手)を選択する自由と、交際中(または婚姻後)の誠実(貞節)という喩えもできるか。要するに、記述に限らず、人間の社会生活一般においては、大概そのような自由と拘束のセットで構成されているということかもしれない。
エクリチュール(〈記述形式〉?)に話を戻せば、ぼくは今、ぼく自身が選択した筈のこの記述形式に既に自縛されていて、それ以外の形式を自由に使いこなすことができなくなっている。この文章の中に突然別の文章形式を挿入すれば(例えば赤ちゃん言葉で「あっちののこっちにいれまちゅ」とか)、文章は破綻してしまう。複数のエクリチュールを不用意に横断することはまず不可能なのだ。無意味になり、コミュニケーションが崩壊する。もっとも、うまくいけばそれは新しいエクリチュールの創造・誕生となるのかもしれないが、しかしたとえ成功しても、その〈新しい〉筈のエクリチュールは、すぐに〈範例〉として定着し、既存のエクリチュールと同列になってしまう。とすれば、エクリチュールとは結局、社会的資産・秩序・慣習のようなものだと捉えることもできるだろうか。であるからこそ、エクリチュールを選択するというその行為によって、社会に対するアンガージュマン(参与)が成立するということになるのだろう。たぶんね。
ところでこの本読んでたら、マラルメのことが気になりだした。
» amazon.co.jp 『エクリチュールの零度』
検索機能を強化しました。[MEMO] [Wanderings] [NOTE] [EXIT] がまとめて検索できます。検索結果はリンクのリストではなく、本文をずらずらと表示する方式のため、スクロールが長くなる場合もありますが、いちいちクリックして内容を確認するよりはこの方がぼくには使いやすい。──と言うのも自分自身のために作ったのが主な目的なので、自分が便利に使えればそれでいいやと。──まあ、そんな身勝手な機能ではありますが、お暇な方は色々お試しください。もしバグを見つけたら教えてね。
また、上記の改造により、微妙にページのアドレスが変わっていたりするものもあります。このため、もしかするとどこかに見落としがあって、リンク切れが発生している可能性もあります。こちらも見つけたら教えてください。
特に [MEMO] は、一年を三分割から四分割に変更したため、暫くは google 等の検索エンジンでの結果と食い違いが生じることでしょう。まあ、これは待つしかないよな。
2006-06-21 追記。そしてとうとう一年を分割するのをやめてしまった。

『使いみちのない風景』 村上春樹(文)/稲越功一(写真) 再読。
稲越功一の写真がいい。村上春樹の軽くて癖のない文章と相俟って、室内旅行にはもってこいのチャーミングな文庫本。疲れている時や調子の悪い時には、こういう本をパラパラと捲っていると、気晴らしになる。
この本を購入した時の動機は、まずそのタイトルに惹かれたからだった。ついつい気になって手に取ってみたくなる、実にうまいフレーズだなと感心してしまったのだが、この本の文中に書かれている通り、そういう題名の曲があるんだそうな。
» amazon.co.jp 『使いみちのない風景』
(本書 p.84 より)
僕らの中に残っている幾つかの風景、いくつかの鮮烈な風景、でもそれらの風景の使いみちを僕らは知らない。

『現代思想のパフォーマンス』 難波江和英/内田樹 読了。
「現代思想の概説ではなく、現代思想をツールとして使いこなす技法を実演(パフォーマンス)すること」を「目的」とし、「こむずかしい現代思想をわかりやすく説明するだけでなく、そこから得られた思考のノウハウを使って、文学や映画を読みなおしてみる、そういうコンセプトの本」であり、「これがなかなかよい本」なのである。「部品の勉強はいいから、まず運転してごらん」ということで、「作動原理や細部のスペックはほうっておいて」、とりあえず「どうやって動かすのか」という「使い方」を知ったら、何はともあれやってみようということらしい。最初はわけもわからずパソコンをいじって、その仕組みや機能の全体像はよくわからぬままに、それでも今では結構快適に使っているように、思想も使っているうちになんとかなって、いずれ便利な道具になるということか。わからなくても使えばいい、と言われると、なんかこう気が軽くなって励みになるよね。(※「」内は各著者による「まえがき」と「あとがき」からの引用)
『現代思想のパフォーマンス』は、わかりやすい解説と、実践編のおもしろさ(特に『エイリアン』、『お早よう』(小津安二郎)の2編の映画を題材に扱った実践がぼくはおもしろかったなあ。『異邦人』は好きだから当然興味深く読んだけど、未知(無知)の『カッコーの巣の上で』とか『エム・バタフライ』もやっぱり気になる)が売りで、どの章も楽しんで読めるのだが、とりわけ気に入ったのはロラン・バルトだった。なぜならそこには「読者の快楽」が語られていたからである。書物から日々快楽を受けている読者の一人としては、首肯けるところが多いのである。読みを強制的に固定する批評家達の言葉なぞ気にする必要はない、テクストの「意図」や「ねらい」を絞り込むよりもむしろ無限の解釈へといざない開くことの方が、読みの快楽は遥かに増大する。
この光文社新書、使われている紙のせいで薄く見えるんだけど、実は430ページもあったりする。ちょっとびっくり。
» amazon.co.jp 『現代思想のパフォーマンス』

『フランケンシュタインの子供』 風間賢二 編 再読?
フランケンシュタイン(人造人間・マッドサイエンティスト・不死)がテーマの短篇集。以下はその目次。
「変身」 メアリー・シェリー 臼田昭 訳
「よみがえった男」 メアリー・シェリー 安野玲 訳
「鐘塔」 ハーマン・メルヴィル 杉浦銀策 訳
「ダンシング・パートナー」 ジェローム・K・ジェローム 井上一夫 訳
「新フランケンシュタイン」 E・E・ケレット 田中誠 訳
「死体蘇生者 ハーバート・ウェスト」 H・P・ラブクラフト 片岡しのぶ 訳
「フランケンシュタインの花嫁」 ジョン・L・ボルダーストーン&ウィリアム・ハールバット 風間賢二 訳
「愛しのヘレン」 レスター・デル・リイ 福島正実 訳
「腹話術奇談」 ジョン・コリア 中西秀男 訳
「ついに明かされるフランケンシュタイン伝説の真相」 ハリー・ハリスン 安野玲 訳
「プロットが肝心」 ロバート・ブロック 伊藤典夫 訳
「不屈の精神」 カート・ヴォネガット・ジュニア 池澤夏樹 訳
» amazon.co.jp 『フランケンシュタインの子供』

『ナジャ』 ブルトン 巖谷國士 訳 読了。
3年前に読んだ白水Uブックスの『ナジャ』は 1928年刊初版の翻訳であり、今回読んだのは岩波文庫の「著者による全面改訂版」1963年刊の翻訳のため、〈再読〉とはしなかった。確かに『ナジャ』という作品の印象がそれほど大きく変わるわけではないが、しかし全く訳注のなかったUブックス版(これはもちろん訳者の意図によるものだ)に比べ、岩波文庫版はテクストとほぼ同量の注が加えられている(これももちろん訳者の意図)こともあって、より深く『ナジャ』の世界が理解できるようになっている。とはいえ、あまりに詳細な注ゆえ、その半分くらいは読み飛ばしてしまったが、まあぼく程度の読書ならそのくらいで丁度いいのだ。
さて、3年前にはどうもよく納得できなかったが、今回の読書で明確になったことがひとつある。それは、『ナジャ』は小説なのか? という疑問だ。Uブックスのカバー(と扉)には「小説のシュルレアリスム」と銘打ってあるから、よけい紛らわしいのだが、少なくともこの作品はフィクションではない。全て事実が綴られている。語られていない事実も多いらしいが、しかし語られている内容に嘘はない。事実とはいえ私小説ともまた一線を画す(というか大体、私小説って日本独自のジャンルだったっけ? いわゆる私小説、ぼくはちょい苦手で、あまり読めない。だからよく知らないことについて断定するわけにもいかないけれど、それでも──たとえ『ナジャ』が冒頭の「私とは誰か?」で始まる文字通り〈私〉探求の作品だとしても──私小説とは呼べないだろう)。そもそもブルトン自身がのっけから既存の小説を嘲笑している以上、この作品が小説であるわけがない(ナジャはブルトンに小説を書かせたがっていたようだが)。というわけで、この作品はドキュメントなのである。──もっとも、そうとわかったのは、自分で考えたからではなく、文庫のカバーにちゃんと「ドキュメント」と書いてくれてあるからである。ちゃんちゃん。
まあ、この作品が小説であろうとドキュメントであろうとその価値に変わりあるまいと主張する人もいるかもしれないが、フィクションであるかノンフィクションであるかというのは、ぼくにとってはかなり意味が違う。基本的に事実より虚構(架空の絵空事、それも奇想天外であればあるだけなおいい)をより好む傾向のある人間だけに余計そこははっきりさせておきたいのだ。確かに虚構だろうと事実だろうとどちらも人間の脳内で起こる事件であるということに変わりはないが、しかしそうであればこそ、ある程度までは線引きしておかないと(厳密に区別することは不可能)、この社会ではうまく生きていけないようだから。──これはそのままナジャの悲劇に繋がる。超現実(強度の現実)を生きることは、その危険を冒す勇気のあるものだけに与えられた特権のようなものだ。
» amazon.co.jp 『ナジャ』

『The Library of Babel』 by JORGE LUIS BORGES. translated by ANDREW HURLEY. etchings by ERIK DESMAZIÈRES.
ボルヘス『バベルの図書館』の英訳版をつまみ読み(※)。とても短いテキストなんだけど、ぼくの英語力では通読不可能。しかし、ピラネージを彷彿とさせる数々のエッチングが素晴らしく、眺めているだけでも楽しい本。
※つまみ読み……普通に書けば「拾い読み」となるのだろう。でも「つまみ食い」みたいな感覚で読むことから「つまみ読み」。だって「つまみ食い」と「拾い食い」じゃ雰囲気が全然違うじゃない? 当然「つまみ読み」と「拾い読み」も違う筈。⇒ 2003/01/05 でもおんなじようなことを書いている。進歩がないなあ。
» amazon.co.jp 『The Library of Babel』
電車の吊り広告のピエロの絵が印象的だったので『ベルナール・ビュフェ展』を見に行ってきた。ビュフェについての予備知識は全くなし。その特徴的な黒く太い輪郭線の故、コマーシャルアートを予想していたのだが、実際は殆どが油彩のファインアート。新鮮な驚きが心地よい。無知でよかった。
で、ビュフェの絵は、結構気に入ってしまったのだが、しかし、ぼくの評価はかなり間違っているようである。なぜなら、後で買い求めた鑑賞ガイドには「虚無」「孤独」「悲惨」などの暗い単語が並んでいるのだが、ぼく自身が絵から受けた印象は非常にユーモラスで可笑しいものだったからだ。うん、確かにね「虚無」や「孤独」を感じ取れないわけではないよ、でもその表現方法はとてもユニーク(唯一無二という意味だ)でユーモラスだと思う。例えば、カフカの作品が暗く重たい主題を負いつつもある種の軽やかさとユーモアを併せ持つように、ビュフェの作品にも軽さやユーモアがあるように感じるんだよね。そんな感想を持ったのはぼくだけだろうか。
Bernard Buffet
http://museebernardbuffet.com/
ビュフェ美術館
http://www.buffet-museum.jp/
損保ジャパン東郷青児美術館 ベルナール・ビュフェ展
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/
映画『妖怪大戦争』。妖怪好きなら時間分はきっちり楽しめる映画だと思います。それ以上ではないけれど。まあ普通の家族向け娯楽映画。
子供のために作ってるせいか、ほどほどに終わっている感あり。でもさ、悪はやっぱ、あんなに簡単に滅んじゃいけません!
とはいえ、もしどこかのガキがおんなじ感想を述べていたら、ゲンコツでぶったたいてやるぞ。子供/未来のための映画なら、たぶんあれでいいんだ。
http://yokai-movie.com/

『まっぷたつの子爵』 カルヴィーノ 河島英昭 訳 読了。
「そして自分に対し、またいっさいのものに対して、すっかり嫌気がさしたなかで、ほんの手すさびに、自分は『まっぷたつの子爵』を書きはじめた。1951年だった」
手すさびと自ら述べるように、軽い読み物だが、この寓話の奥に潜んだ「いっさいのものに対して、すっかり嫌気がさした」寂しさが見え隠れして、子爵の右半身の悪党ぶりがひどく魅力的に感じる。もともと文学作品というのは、善を描くよりも悪を描いた方が、より魅力的に感じるものなのだ。
» amazon.co.jp 『まっぷたつの子爵』
「手術台の上のこうもり傘とミシンの偶然の出会い」とはマックス・エルンストがロートレアモンの詩から引用してシュルレアリスムを評した有名な言葉である。ぼくはずっと、こうもり傘と何が出会ったのか、そして誰の言葉だったかということがまるで思い出せず気になっていたのだが、偶然フーコーの『言葉と物』の訳注の中に疑問の真相を発見したので、忘れないうちにここにメモしておく。

『カエアンの聖衣』 ベイリー 冬川亘 訳 読了。
服飾・ファッションという文化をベイリー流に調理(いや、裁断と言うべきか)するとこうなるわけだ。すっげー。能動的知性と受動的知性。そして衣服フェチ──単なるコスプレって意味じゃねーぞ、主役はそれを着こなす中身の人体ではなく、衣服そのものなのだから。まったくもうこれは奇想の勝利だ。論理抜き、入念な人物描写抜き、ただひたすら奇抜な観念(アイディア)に頼って虚構の宇宙を構築する、その醍醐味さえ味わえればもうそれで満足だ。……が、しかし。ベイリーってあんまり出回ってないみたいだから、当分この作家とはおさらばせざるをえないんだろうな。まだ読んでいない作品に次出会えるのはいったいいつになるだろう。
ところで、この文庫本(ベイリー『カエアンの聖衣』)のカバー、これ、きっとマグリットへのオマージュだよね? 帽子の特徴的な輪郭とスーツの組み合わせ。これだけでもうひとつのスタイルとなってしまっているのがマグリットの凄いところだが、それを敢えて小説のカバーに引用し、小説世界と見事にマッチさせてしまっっているのは、このイラストレータ(野中昇)のなかなかうまいところだと思う。最近、何かのソフトウェアのパッケージでも、同様の絵を見かけたことがある。ちゃんと見なかったので、正確にはどんな絵だったか、誰が描いたのかもわからないが、あれもまた、マグリットスタイルを意識していたに違いない。今度見かけたらもうちょっと詳しく眺めてみよう。……と、ついついマグリットファンのぼくとしては、メモしておきたくなった次第。
» amazon.co.jp 『カエアンの聖衣』
『THE ANSWER』 鈴木剛介 読了。
面白かった。少なくとも、飽きずに最後まで読んだのだから、これはやはり面白かったと言うべきだろう。だが、その面白さは小説の面白さではなかった。エンタテインメントの面白さだというのは確かだが、それでも小説としてのデキは良くない。だから、これはたぶん、エッセイとか、ドキュメントとしての面白さだ。作者の思考をなぞることの面白さ。エネルギーに満ちているし、「世界中のすべての問いを解決できる答え」などという恐ろしく大袈裟すぎるキャッチ──書店で平積みされていたこの本の帯に書かれたキャッチフレーズだが、まさにこのフレーズに目を引かれて、この本を手に取ったのだ。小説のコーナーに並んでいる割にはあまりに小説らしくないキャッチのギャップと、今どき珍しいその思いきりの良さ──も相俟って、雑食性の知的好奇心と荒唐無稽を愛するぼくのような人間なら、楽しめる本だ。が、それでも警戒心が働いてしまうのは、どうやら作者があまりにも大真面目なせいである。ぼくは年寄りだし、エンタテインメントとしてこの本を楽しんだだけだが、しかし若い人達(それも特にまっすぐでひたむきで素直で真面目にものを考える頭のいい理想主義者達)は気をつけた方がいい。「最終理論」は作者が感じているような「呪い」ではないし、無理矢理世間に広めなければならないものでもない。理論など広まる時には勝手に広まってゆくものだし、人類など滅ぶ時は滅ぶ。と、現在のぼくなどは「怠惰&投げやり&なるようになれ」主義なのでそれでいいんだが、例えば20年ほど前のぼく──まだ多少は真面目&為さねば成らぬ&理想主義的なところがあった──がこの本を読んでいたら、あるいは多少の共感をしていたかもしれないと思うのである。が、それはちょっと危ないんじゃないかな。あまり根を詰めない方が、世の中うまくゆく。意欲と諦念の拮抗しているくらいが丁度いいと思うんですがね。ところで、肝心の「QAS」と「PSM」そのものの論考(あるいは証明や実践)が極端に少なく、これでは頭の悪いぼくには「納得」しかねる。それにまつわる周辺部の論考が面白いだけに、「最終理論」そのものの説明があまりに弱すぎる気がした。「ルールを決める」論には「納得」できても、「ルール」そのものに「納得」できていないのだから、ちょっとスッキリしない。
作者と作品のサイトがあったので、リンクしておく。
⇒ http://www008.upp.so-net.ne.jp/gps1999/
『蚊』 椎名誠 再読?
この短編集、以前に読み切ったのかどうか、記憶がない。購入したのはおそらくもう二十年近く昔のことだろう。数年前、本をちょっとだけ処分した時(もともと本を捨てられない性質の人間なので、そういうことは稀なのだ)にも、この本を読んだかどうかの記憶がなく、もし未読だったら処分するわけにはいかないと思い、本棚に残しておいたのだった。以来、暇があったら読もうと思いつつ、ついつい年を経てしまったという経緯(いきさつ)のため、やっと咽のつかえ(じゃなくて 胸のつかえ)がとれた(じゃなくて 下りた)気持ちがする。というほど大袈裟なことでもないか。
今回読んで、少なくとも表題作「蚊」は、確かに再読にあたることが判明した。あとの短編は読んだような読んでないような薄ぼんやりと曖昧な感じだが、この「蚊」だけは、強烈な肉体感覚(記憶ではなく)が再度蘇ったため、間違いなく以前にも読んだと確信する次第。ではその強烈な肉体感覚とは何かというと、「痒み」である。とにかく読んでいる間ずっと、体のどこかしらが痒くてしかたなくなってくるのだ。これは全くたまらない。どうも読書の隙をついて(というのも、読書中の人間なんて現実から遊離してどこかあさっての方に飛んでしまっているわけだから、これほど無防備な状態も他にあるまい)、大胆にもズボンの裾やシャツの袖などから進入した蚊によって、血を吸われているのではという錯覚に陥ってしまうのだ。丁度この短編を読んでいた時は喫茶店にいたので、あまりあからさまに体中ボリボリ掻きまくるというわけにもいかず、非常に困った。それでも始終体をもぞもぞさせずにはいられなかったから、傍から見たらさぞかし不審な様子に見えたことだろう。そう思い返すとかなり恥ずかしい。
さて、だがしかし、この短編中に出てくるのは雲霞のごとく大量発生した蚊の大群であって、これはもう一匹二匹の蚊に喰われて痒いなどという生易しいものではない。もうとにかく凄まじい話である。

『イリュージョン』 バック 村上龍 訳 再読。
『ジョナサン』を読んでから思い出して、それでこの本も再読したってわけ。あれは97年のこと、「救世主入門」のテキストを補完創作するという遊びをネット仲間でやってたっけ(企画・発案はカステラさんという人)。参考書として、その時に初めて『イリュージョン』を読んだのだったなあ。初読時にどんな感想を持ったのか、もう全く思い出せない。だが、今回改めて読んで強く感じたのは、バックの明確で強烈な信念──それは煎じ詰めれば「〈自由〉とは〈飛ぶこと〉である」という信念なのだが、勿論この〈飛ぶこと〉の部分は自分の好きに書き換えていい──だった。自分が〈自由〉である状態をリアルに思い描き、完全に信じきれたら、その瞬間既に自分は〈自由〉になっているのだ──そしてまた──人間は誰でも好きなことをしていいのだ、という思想(この大いに他人を誤解させる思想のために、小説中ではシモダは結局信奉者に殺されてしまう。何となく、キリストとジョン・レノンをミックスさせたような死に方だと思った)。そう、『ジョナサン』でもバックは同じことを言っていた。ぼくはこの二冊しか知らないが、バックという作家はきっと繰り返しこのことを書いた作家なのだろうと見当はつく。人間は誰もが自由であり好きなことができる。それを伝えるためにバックは小説を書いたに違いない。たぶんね。
二人のジプシーパイロット、ドンとリチャードの出会いの場面は美しいと村上が解説で書いていた。ぼくも同感だ──特にその会話が、赤面するくらいシンプルで美しい。
そうそう、それにこの本、円池茂(まるいけしげる)の挿画がとてもチャーミングで楽しい。
» amazon.co.jp 『イリュージョン』

『かもめのジョナサン』 バック 五木寛之 訳 再読。
この小説を初めて読み終えたのは、いつだったろう? とても懐かしい。正確には思い出せないが、小学校低学年の頃、家に転がっていたこの本を、何度も読みかけたことは記憶に残っている。当然読めない漢字も多くあり、適当に文字を飛ばすのだから、意味など皆目わからないが、それより何より読み始めて暫くすると、必ずといっていいほど頭痛がしてくるのだ。これは例えではなくて、本当に身体的に、頭が痛くなるのである。たぶん、ものの2〜3ページと読めなかったように思う。それでもどういうわけか何日(あるいは何週間、もしくは何ヶ月)かすると、またしても手に取って読もうと試みるのだ。そして頭痛が始まり、放棄する。いつもその繰り返しだった。それならどうして何度も何度も読もうとしたのかというと、他に何にもすることがなく、余りにも退屈だったからだ。その本を手に取って読む以外、することがなかった! 全くいったい何という子供時代だろうか。結局、最後まで読み通すことができたのは、恐らく小学校高学年か、あるいは中学生になってからか。記憶があまり定かではない。読み終えた感動など特になかった。それどころか、昔は読み出すとあんなに頭痛がしたのに、それがある時、全く頭痛もなく、あっけないくらい簡単に読み終えて、拍子抜けしたことを覚えている。あの珍妙な茫然とした気分。その頃まだぼくは思春期ですらなかった。他にすることがなかったという以外に、特に読まねばならない動機もなかったぼくが、いかなる感想も持ち得たとは思えない。面白いといえば面白いし、嘘っぽいといえば嘘っぽい。何だかちょっと宗教臭い、神秘主義、理想主義、ヒッピーぽい、などという言葉も知らなかったから言語化することもできず、ただそれらの漠然とした雰囲気(そう、あの時代の「雰囲気」というのは確かにあった)を感じ取っていただけだ。──そして、ちょっと懐かしさを覚えて改めて読んでみたぼくは、おっさんになった今でもやはり、最初に読んだ頃と大して変わらない印象を受けたのだった。変わってないのは自分だろうか、それともこの短篇だろうか?(こういう比較をするのはおかしいかもしれないが、読む度に違う印象を齎すドストエフスキーの作品などと比べると、不変の印象しか持てないこの作品の方が、ぼくの評価は低くなってしまう。私見だが、変化を拒む作品は、結局時代の中に取り残され、いずれ埋もれてゆくような気がするのだ) 決して嫌いじゃないんだけどね──そして、これもやっぱり昔と変わらない感想なのだが、写真(ラッセル・マンソン)はとても好きだ。
» amazon.co.jp 『かもめのジョナサン』

『バートン版千夜一夜物語 II』 大場正史 訳 読了。
一年以上間隔をあけて続きを読んだものだから、さっぱり話の状況が思い出せない(というのも、話のキリよく巻が別れていないからだ)のだが、しかしそんなの構うこたぁない。読めば何とかなるもんだ。というわけで、『III』はいつ読めるだろう? やっぱり来年かな。もし年間一冊ずつ読むなら、すべて読み切るのに11年かかるわけだ。しかし昨今の出版事情を鑑みるに、11年も絶版にならずにいるものだろうか? 次の『III』だけは手元にあるが、それ以降の巻も入手しておくべきだろうか? しかしそれも色々厄介な気もするしなあ。色々というのは、
などなどである。まあこの問題はもう暫く保留としよう。
» amazon.co.jp 『バートン版千夜一夜物語 第2巻』
序でにボルヘスのエッセイ集『永遠の歴史』より「『千夜一夜』の翻訳者たち 1 バートン大尉」を再読してみる。どうも「『千夜一夜』と言えばボルヘス」という自動聨想から逃れられずにいるわけですよ。
» amazon.co.jp 『永遠の歴史』

『パワナ』 ル・クレジオ 菅野昭正 訳 再読。
『白鯨』からの鯨つながりで、これはどうしても読み直したかった短編。衰退の寂寥感が背後に(短編だから、前面には出てこないけれど、背後にひとつの大きな時代の盛衰が)溢れている作品。この作品が醸し出している何とも言えない寂寥感は、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の寂寥感に通じるものがあるような気がしてならない。過ぎ去った時間に対する郷愁の念に似た情感──だがそれだけではない、もっと遍在的な寂寥感だ、この世界全体に通底するような何かの──というような、受ける印象がどこか似ている気がするのだが、ぼくだけだろうか。しかし、クレジオという作家、結構好きなのだが、どういうわけかこれまであまり縁がなかった。いまだに短編集『海を見たことがなかった少年』とこの『パワナ』しか読んだことがないのだ。そしてこの2冊とも気に入っているので、ぜひ別の作品も読んでみたいと思いつつ、なぜか捜そうとはしたことはない。なぜだろう。
» amazon.co.jp 『パワナ』

『思考の道具箱 数学的リアリティの五つのレベル』 ラッカー 金子務 監訳 読了。
ラッカーの情報論。数学者ラッカーが、4つの基本概念「数・空間・論理・無限」を駆使して5つ目の基本概念である「情報」について論じる。この本、ただの数学の本じゃありませんぜ。数学という普遍的言語を用いて世界を(不可解は不可解のままに)記述しようという試みだ。「世界=リアリティ=パターン=情報」という(ラッカーの?)公式に従えば、つまり情報論は世界論である。
が、さて、──読み終えはしたが理解したかどうかはきわめて怪しい。特に後半の「論理」と「無限」を扱った章は、吟味することを諦め、思考停止のままひとまず呑み込んでしまった。いや、難解というわけではない(むしろ深い)。おそらく、丁寧に読んでいけばきっと展開についてゆくことは可能な筈だ。ただ、それにはまず手を動かさなければならない。ラッカー自身、自ら手を動かして図を描き、立体を工作し(例えばご丁寧にも「数学的知識のペンタヘトロイド」なる五つの正四面体の展開図を添付して、読者にも工作を促している)、ペンローズのタイルを自作したりもしている。だから読者もそれに付き合って、手を動かし、工作したり計算したりすれば、きっと理解が深まる筈なのだ。が、怠惰な読者であるぼくはそうしなかった。そのため、最も興味深い章を最もちんぷんかんぷんなままやり過ごしてしまったのである。でも、悔いているわけでもない。なぜなら本はまだぼくの手元にあり、なくしさえしなければずっとぼくの手元にある筈だからだ。いつでも取り出して、少しずつでも繰り返し検証をかけていくことができるというわけだ。わくわくするじゃないか。
──まあそんなこんなで、ラッカーの著作物に対する興味がこのところ増してきている。読み損ねた『空洞地球』とか──。
ところで、この本のいいところは
だったりもする。
» amazon.co.jp 『思考の道具箱 —数学的リアリティの五つのレベル』
ソフトウェアはハードウェアに置換することが可能であり、その逆もまた可である──開発コストや実行速度の問題は無視して、本質的な点のみについて考えればってこと。このアイディアを小説的に実現したのがイーガンの『順列都市』だったな、そういえば。ぼくらの脳髄はハードウェアだが、蓄積された情報(有形無形の記憶や、種としての特徴、あるいは先祖代々引き継がれてきたものを含め、個としての固有の特徴)はソフトウェアでもある。ところでこれを宗教的に考えると、人間というのは肉体と魂から成っているわけで、脳髄=肉体はハードウェアだから、魂=情報はソフトウェアってことになる。と、ここまではきっと誰もがその比喩(本当は比喩ではないんだが)に納得する筈だ──多かれ少なかれそんなことを考えた経験があるだろう? だがさて、冒頭の命題に戻れば、互いに置換可能ということは、つまり互いに等号で結ばれているということだ。どちらも本質的には違いがないのだから。そして、概念的には分割可能なこの二つも、存在(運動)の様態としては分離は不可能だ。ハードウェアはソフトウェアを内包し、ソフトウェアはハードウェアを前提にする(誤解している人がいるといけないので書いておくが、ここでぼくが言っているハードウェアとは、要するに物質全般のことであって、ある一部の電子機器のことを指しているのではない──書物や自転車やコップといった割と単純な物質(ハードウェア)だって、それが情報である以上はソフトウェアでもあるということだ)。存在とは、ハードウェアとソフトウェアの統合された状態でしか実現不可能な様態であり、故に肉体が滅べば魂も滅ぶ。だがまた、存在とは情報のことでもあるから、情報が保管されている限り、魂も残る(情報が完全であれば肉体の再生産さえ可能だ──ただし、その情報が何時の時点で作られたものかによって、再現される年齢も性格も思想も感情も違う筈だが)。──その人が死ぬとその人固有の情報は失われるが、まったく失われるわけでもなくて、かなり不完全な欠落した形ではあるが、一部は残される。記憶や記録として。あるいはまた、エネルギー保存則に従えば、情報は失われるのではなく、形を変えて生き残るという見方もできる。遺伝子コードとして、思想として、炭素として、あるいは分子・原子・電子・核子にまで砕け散ったとしても。まあこれは結局、その情報の固有性(アイデンティティ)が失われてしまうわけだから、やはり情報の喪失ということになるのかな。しかし少なくとも無に帰するわけではない、と思うことはできる。そう、現代の物理学で言えば、真空でさえも無ではないのだ。
なんだかごちゃごちゃしてしまったが、自分でもまだきっちり整理できているわけではなく、だからこそ MEMO(覚書)としてここに書いておく次第。飛躍や矛盾点についてあまり深く追求しないように!(誰もするとは思えないが)

『墜落のある風景』 マイケル・フレイン 山本やよい訳 読了。
なかなか面白いミステリだった。読後の爽快感が得られなかったというのがいまひとつ物足りないが、しかしああいう結末であればこそ、小説としてのリアリティは増すというものだ。決して悪い終わり方ではなかったと思うし、小説を読む楽しさは結末ではなくその過程にこそあるのだから、文句を言う筋合いもない。それに何といっても主題が興味深きブリューゲル! この画家について僅かでも関心がある人ならば、ぼく同様この小説を楽しむことができる筈だ。
さて、マイケル・フレインという作家が果たしてぼく好みかどうか(読者という我儘な立場の人間にとっては、これが最も重要な問題なのだ。好きな作家が多ければ多いほど、この生きにくい社会と人生を、あまり落胆したり退屈したりせず、それなりに幸福に暮らせるというものだからね)については、この一冊だけではまだ結論は出せないが、少なくとも嫌いな要素はなかった。もし他の作品を見つけたら、読んでみたいと思う。
ところで、この『墜落のある風景』の「著者あとがき」に出てくるルディ・ラッカーとは、もちろんあのラッカーのことだ! で、そのラッカーが書いたブリューゲルの小説(SFじゃないんだと!)があるというので、ぜひ読んでみたいのだが、きっとまだ翻訳はされていないだろうし邦訳予定があるのかどうかもぼくは知らない。
そこで次はラッカーの『思考の道具箱』を読むことに決めた(これもSFじゃないんだぜ!)。持ち運びやすさから、このところずっと文庫本ばかり読んできたため、ハードカバーの未読本がなかなか消化できずにいるので、ここらでちょっと頑張ってみようかなと考えたためでもある。
» amazon.co.jp 『墜落のある風景』
今はマイケル・フレイン『墜落のある風景』(山本やよい訳)を読んでいる。この本は、この素敵なタイトルに惹かれて買ったので、どんな作家でどんな作品なのかについては全く知らない。しかしぼくの敬愛するヴォネガットのお気に入りだというからには、きっと期待に応えてくれるに違いないのだ。
さてこのタイトル『墜落のある風景』は、ブリューゲルの『イカロスの墜落のある風景』から取られているらしい。というのも、ブリューゲルの失われた絵画の発見というのが、この小説の主題だからだ。
歴史的事項・謎についての推理とくれば『時の娘』を思い出す(もしかしたら最近話題の『ダ・ヴィンチ・コード』もそうなのかしらん? よく知らないんだが……面白そうだという気もしないではないが、流行モノにはどうも手を出す気になれない慎重な性格──ヒネクレ者などではないぞ──のため、今のところ無視している)。が、ここで困ったことに、『時の娘』の記憶がきれいさっぱりすっぱりすっかり無くなっている。全く何にも思い出せない。読んだのは十数年前の筈だ、その後時たまタイトルだけが頭に浮上してきて、読み直そうと書架を漁ったことも何度かあるのだが、その度に見つからず断念するということを繰り返してきた。紛失してしまったのだろうか(今でもまだ、ひょっこりどこかの隅から出てきそうな気がするのだが)。いつか必ず読み返してやろうと思っている書籍のリストに取り敢えず加えておく。
で、『墜落のある風景』──原題は "HEADLONG" (まっさかさまに)だから、特にブリューゲルの『イカロス…』(Landscape with the Fall of Icarus)から取ったわけではなさそうだ。では、原題と主題の両方を盛り込んだこの邦題は、訳者(あるいは編集者かもしれないが)のセンスということになる。うまいものだなあとひとしきり感心。
まだおよそ三分の一弱のところを読んでいる。総頁数が五百を越えるくらいの分量だから、なかなかの長編なんだけど、大作『白鯨』を読み終えた後では、何とも気持ちよくスイスイ進むのが嬉しい。というのも、『白鯨』は量もさることながら、やはり註と本文の間を行き来するのが大変だった。もっとも、『ユリシーズ』(丸谷才一 他訳)の恐るべき夥しい訳註に比べれば、『白鯨』とてたいしたことではないのだが、それでも読みにくいことに変わりない(だったら読まなきゃいいじゃんと思うかもしれないが、しかし訳註にもそれなりの面白さがあるので、読まなきゃ損なのだ)。そういえば、『ユリシーズ』の巻末エッセイで池澤夏樹が「『ユリシーズ』というのは本文と注がセットになって初めて機能する小説である」とした上で、「テクストは水平に流れようとするけれども、難解な箇所は注を要求する。注は垂直に立つもので、テクストの流れを妨げる。それに抗して読み進むだけの忍耐を読者は持たなければならない」と書いていたのが妙に印象的だったなあ。
ともかく『墜落……』はスーイスイっとくらあ。読む速度というのもそれなりの快感を伴うものだと知る。
ブリューゲル『イカロスの墜落のある風景』はサイト「アートatドリアン」の以下の頁で見られます。『バベルの塔』も2作掲載されてます。こういうサイトがあるのは有難いことだ。
⇒ http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/B/Brueghel/Brueghel.htm

『白鯨』 メルヴィル 八木俊雄 訳 読了。
白状します。ぼくはずっと『白鯨』は海洋冒険小説だとばかり思ってました。エイハブというエキセントリックな人物と幻の鯨との決闘! まあそれも完全に間違いというわけではないけれど、むしろカバー紹介にあるとおり〈知的ごった煮〉というのが正解のようだ。子供の頃に『白鯨』を読んだ人、もしかしたらその頃に得た印象は違っているかもしれないよ。『白鯨』はもっと多重的な読みが可能な作品だ(だからこそ名作と呼ばれる所以なのだろうけれど──全ての名作は多重的な読みに耐えうる重層性を持ち合わせているものなのだから)。類似の主題ではヘミングウェイ『老人と海』が思い浮かぶけれど、かなり読後感は違う──というか、先刻白状したように、海洋冒険小説として捉えていた時、かなり『老人と海』と重(ダブ)らせていたのである──じゃあ『老人と海』は海洋冒険小説なのかといえば、やっぱり違う気がするんだけどね。
『白鯨』は、プロットだけ追えば確かに重苦しい物語だが、しかしどこかユーモラスな一面も持っている。たぶん、演劇的な側面が、その原因じゃないかなと思う──ピップやスタッブ、それに暗く深刻な役回りのエイハブでさえも、時にシェイクスピアの道化のような雰囲気を持って描かれていることがあるように、読中屡々感じたのだ。
あと、鯨と捕鯨にまつわる博物学的な記述もなかなか楽しめるものだったが、しかし現代から見れば、この時代に欧米が行っていた捕鯨業というのは、お粗末な乱獲だというほかはない、たとえどれだけイシュメール=メルヴィルが擁護しようとも。彼等の、主として鯨油を取るためだけの捕鯨は、生きるために肉も骨も余さず利用するイヌイット達の捕鯨や、あるいは我々日本の捕鯨とは、比べようもないくらい精神性の低い行為/文化だと思うのだが、どうか。例えば星野道夫の著作などを読んでいて思うことは、狩猟採集民のアニミズムというのは、決して精神の幼稚な思想などではないということだ。メルヴィルの鯨に対する崇敬も確かに並々ならぬものを感じはするし、実際、ナンタケットに代表されるかの時代の漁師達もきっと同様の崇敬を持っていたのに違いないとは思うが、しかし、にも拘わらず、鯨一頭一頭の生命を彼等はやはり軽んじすぎていたのではないだろうか。
──もっとも、そんなことをぼくが論じてみても意味がない、そもそも論じる資格と能力を持っていない。ただ、読みながら時々そんなことを考えていたという、ひとつの感想である。──しかも直接『白鯨』の感想でさえない。が、小説を読むというのはいつも、ぼくにとっては、そのような連鎖的な思考(もしくは雑念)の脱線の連続を意味するのである。どう間違っても、そうでなかった試しなどない。──それに書くという行為も、やはり同じかな。特にこのMEMOのように、取り敢えず備忘の為に殴り書き(キーボードだから殴り打ち?)しているような場合は、尚更そうかもしれないな。
» amazon.co.jp 『白鯨』

『禅<ゼン・ガン>銃』 ベイリー 酒井昭伸 訳 読了。
世界の成り立ち・仕組みに対する絶大な好奇心。その好奇心を真面目に追求すれば科学者になる。しかし学問というのはとてもまだるっこしい。こつこつと実験だの検証だのに費やし、地道な積み重ねを必要とする。それはそれで尊敬しうる立派な仕事ではあるが、しかしどうも自分には気長すぎる。どんなにがんばっても、もしかしたら知りたいことの半分も解明できずに一生を終えるかもしれない。などと考えるせっかちな人間がSF作家になるのじゃなかろうか。科学では未だ解らないことを、空想で補う。想像力を駆使して世界の仕組み(理論)を勝手に再構築する。もちろん、そのような思いつきの理論など間違っている公算は大である。しかし、問題は正しいか間違っているかではなく、楽しいかどうかなのだ。答が合っていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。それらしい答を導き出すためにあれこれ思案することが楽しいのだ。フィクションとは、そういう楽しさなのだ。だからこそ、世界の仕組みは奇想天外であればあるほど面白い。更に、その奇想天外な理論にいかにももっともらしい理屈をつけ、さも有り得ることのように説明できれば、なお面白い。よくもまあこんな屁理屈をひねくり出したものだと人に思わせられれば最高である。嘘八百で人を騙して納得させてしまうのはたまらない快感だ。SF作家とはつまり稀代の大嘘つき・詐欺師・ペテン師の類なのだ。ただし、それで人から何かを奪ったりはしない。むしろ希有壮大な法螺話で、人に楽しい時間を与えることこそ本懐だ。
……と、ベイリーがそんな風に考えているものかどうかは知らないが、何となくぼくはそんなことを思ったのだった。
» amazon.co.jp 『禅銃〈ゼン・ガン〉』
さあ次はいよいよ宣言通り『白鯨』にとりかかるぞ。これは大長編だから、たぶん読み終えるのに結構時間を要するに違いない。また暫くここは何も書き込まれない空白の日々が続くだろう。『白鯨』を読み終える頃には、もっと仕事が暇になっているといいなあ。ではお達者で。
『ポオ小説全集2』 エドガー・アラン・ポオ 大西尹明(ただあき) 他訳 読了。
「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」はいつか読んでおかなければとずっと思っていたのだが、『さかしま』からの流れで(ということは谷川渥『幻想の地誌学』の流れとも言える)漸く読むことと相成った次第。ぼくはどうもポオの作品とはあまり付合いがなく、子供の頃にいくつか読んでそれっきり(きっとそういう人は多いんじゃないかと思う)になっていたのだが、ミステリーやSF──と言うほどジャンル分けに拘るつもりもないのだが──におけるポオの貢献を改めて見直してみたいと感じた。とりあえず、この文庫版小説全集の他の巻も、いずれ(数年内には)読んでみたい。「黒猫」は覚えているが他の有名な作品「モルグ街の殺人」とか「アッシャー家の崩壊」とか「黄金虫」とかは、題だけは知っててもどんな話かまるでわからないし、読んだことがあるのかないのかさえ既に定かではなくなっているから、それはそれで楽しみではあるが……ポオとはどうも体質的に相性ぴったりというわけではなく、のめりこんで読むことができない。この一冊を読み終えるのに随分時間がかかったのも、そのせいだ。まあこのところ妙に忙しいというのもあるのだけれど。
それにしてもポオって、随分夭折だったんだな。知らなかった。カフカも早くに亡くなったという印象があるけれど、そのカフカよりもまだ若くして死んでいる。ランボーとどっこいかちょっと長生きというところ。それに比べると、ゲーテやボルヘスなんてのは、まるで怪物かメトセラのようにさえ思えてくる。とは大袈裟すぎるか。……現代日本人の寿命を思えば、大したことはありゃしないものな。あ、長生きで思い出したけど、ヴォネガットさんはお元気ですか?
まあそれはさておき、この近代小説シリーズ、この勢いで(?)次はいよいよメルヴィルの『白鯨』にとりかかるとしようか。でもたぶんその前にちょっとだけ現代に寄り道して、気分転換のため間に何か一冊挟むだろうけど。……とおみくじを引く感覚で適当に手に取ったらベイリーの『禅<ゼン・ガン>銃』だった。よっしゃ、これでいこう。
と、本日のMEMOはいつも以上にまとまりのない文章で(寝不足で少々ハイになっているらしい)まことに相済まぬことで。読書メモと称しつつまともな感想を書くわけでもなし、おまけに更新もまばら。それでも読んでくれる人が全くの皆無ではないというのが、ぼくには不思議でならない。
『木のぼり男爵』 カルヴィーノ 米川良夫 訳 再読。
暗鬱な書物の後ではカルヴィーノの軽みは救いになる。この本はぼくにとってカルヴィーノとの出会いの書。久し振りに読み返して、やっぱり楽しい。
» amazon.co.jp 『木のぼり男爵』
『さかしま』 ユイスマンス 澁澤龍彦 訳 読了。
デカダンの聖典として有名な書物。あちこちで引用されているのを知っていただけだったので、一度は読まなければと思っていたのだった。まあ確かに、ある種の名作ではあるだろう。しかし、ルドンやモローはいいが、全体の暗鬱で退廃的な調子はこちらの精神状態まで失調を来しそうだ。第四章の歯医者の逸話だけは笑えたけれど。
» amazon.co.jp 『さかしま』

『ロボットの魂』 バリントン・J・ベイリー 大森望 訳 読了。
ロボットは自意識を持てるか、という問題がテーマのSF。原著は1974年刊行。以下略。
» amazon.co.jp 『ロボットの魂』
『ドーキンス VS. グールド』 キム・ステルレルニー 狩野秀之 訳 読了。
『順列都市』 グレッグ・イーガン 山岸真 訳 読了(上下2巻)。
いやもうなんともたまげたアイディアですな。傑作です。ウィリアム・ギブスンの名脇役〈構築物〉が、ここでは〈コピー〉という名称で一躍、主役の座に抜擢されている。展開されるのは我々の宇宙からの完全な脱出と完全な不死という主題。こういう物語はやはりネタバレご法度だろうから、詳しいことが知りたかったら読んだらいいのだ。
ところが残念ながら、この本、現在品切れ中。新品で手に入れるのは難しい。そこらへんの古書チェーン店あたりでなら見つかりそうな気もするんだが、近所数軒では在庫無し。待っていればいつかは増刷されるのかもしれないが……ないとわかるとますます読みたくなって、結局ぼくは図書館で借りた(これも、最寄りの図書館では誰かが無断で持ち出したらしく行方不明、ちょっと離れた隣市の図書館で幸運にも借りることができたという、ちょい苦労話だったのさ)。
ネットで調べると古本でも、定価以上〜美品だと6千円くらいで取引されているようだ。少し驚き。いくら読みたいからって、もともと2冊で1200円余の文庫本に6千円も出しますか。きっと購入するのは読むためという以上にコレクションするのが目的なんだろうな。単なる推測だけど。……いや、でも、確かに傑作だし、6千円出しても読む価値があるかもしれない。うーん、どうだろう。もし図書館にもどこにもなかったら、3千円くらいだったら出してもいいな。
» amazon.co.jp 『順列都市(上)』
» amazon.co.jp 『順列都市(下)』
書物の扱い方というのは人それぞれらしく、読むにも保管するにも物凄い神経を使う人がいるらしいが、ぼくは読めさえすれば、陽に焼けようが折れ曲がろうがさして気にしない(といって粗末に扱うことは決してない……軽く布団の上に放り投げるくらいのことはするけど)。が、古本として手に入れるなら、頁が破けてたり書き込みがあったりするのは厭かな。他人の傍線が見つかったりすると気になって、ついその部分を注視してじっくり読んだり逆にわざと読み飛ばしたり、要するに平常の読みを狂わされ、それが癪に障るから。
でも、本というのは、少しくらい年月が経って頁が黄ばんでいたりした方が、雰囲気があってぼくは好きだ。それに多少ざらざらした手触りも。……いやもちろん、新刊本の頁の真新しい手触りやインクの匂いも捨てたもんじゃないが……と書いて急に気がついたのだが、最近あまりインクの匂いを嗅いでいない。それとも最近のインクはあまり匂わなくなっているのだろうか。あれ?どんな匂いだったっけ。思い出せないぞ。嗅げばもちろんすぐさま記憶が甦るのに違いないのだが。今手に届く範囲内にはそんな本1冊もない。もしかしたら部屋中捜してもないかもしれない。いつの間にか気づかぬうちに、そのような快楽は書物から奪われてしまっていたのだろうか。だとしたらこれは非常に由々しきことじゃ。Oh! No! そういえば印刷技術って、ぼくの子供の頃とは随分変わってしまっているんだよなあ。あまり詳しいことは知らないんだが。
ともあれ、莫迦なことを書いていないで、さっさと風邪を治してしまわねば。いったい今比較的熱がなくて気分がいいのは、単に薬が効いているせいか、それとも快方に向かっているからか、さあどっちだ?

『しあわせの理由』 グレッグ・イーガン 山岸真 訳 読了。
短篇集。ローカス賞受賞作。以下は目次
「適切な愛」
「闇の中へ」
「愛撫」
「道徳的ウイルス学者」
「移相夢」
「チェルノブイリの聖母」
「ボーダー・ガード」
「血をわけた姉妹」
「しあわせの理由」
≫ Greg Egan's Home Page
上記はイーガン本人のサイト。量子サッカーもある。……難しそう。おまけに英語だし。でも時間があるときにじっくり読んだら面白そうだ。
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『となりのカフカ』 池内紀 読了。
明るいカフカ──ぼくはカフカの小説のユーモラスな感じが好きだ。小難しい陰鬱なカフカ像など不要である。そのような暗いカフカ像を世間から払拭するのに、池内紀は随分貢献していると思う。少なくともぼくのカフカ像の半分以上は、池内紀の著作によって得られたものだというのは間違いない。
この本のなかでちょっとした発見があった。かの奇妙な生物、オドラデク──ぼくも大好きで時々登場してもらっているのだが──は確かにカフカの創造になるが、しかしその名前はカフカの考え出したものではなかった。何と、オートバイの名前であるとのこと。カフカという人は結構機械好き・新しモノ好きだったらしく、当時実用化されたばかりのオートバイを叔父から借りて乗り廻していたそうな。……オートバイに乗るカフカなんて、考えたこともなかった!
ところで、そのオドラデク(オートバイではなくカフカの創造した生物の方)のことだが、いったいどのくらいの大きさを皆は思い描いているのだろう。ぼくはてっきり掌に乗っかるくらいの小さなヤツだと考えていた。「糸巻き」「おそろしくちょこまかして」「チビ助」などの言葉から連想して、そう思ったのだ。しかし今日久し振りに読み返してみると、「階段の手すりによっかかって」という記述が目に留まった。もしかしたら、小さな子供くらいの大きさがあるのかもしれない。どう思います?
さてそんなわけで、入浴中、短篇集から「父の気がかり」「判決」「中年のひとり者ブルームフェルト」ヨーゼフ・Kの「夢」なども読み返した。
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上に「叔父」という言葉が出てくるが、実はつい最近までぼくは「叔父」と「伯父」の区別を知らなかった。IMに教わったのだ(辞書付のIMって便利だな、ともう何年も使っているのに改めてそう思った)。しっかりと覚えるために、ここでもう一度おさらいしておこう。「伯父」は父母の兄もしくは義兄。「叔父」は父母の弟もしくは義弟。例えばこのぼくには「叔父・叔母」はいるが「伯父・伯母」はいないことになる。え、そんな使い分けも知らなかったの、などと言う勿れ。きっとぼく以外にも、このことを知らない人は大勢いるに違いないのだ(と思いたい)。──しかし、文字はともかく、音声では区別できないよなあ。
『家鳴り』 篠田節子 読了。
相変わらずの篠田節子──ただし相当レベルの高い相変わらずだが。いったい、この作家の書いた作品で、これは駄作だと思えるものにお目にかかったことがない。様々なジャンルを扱いながら、どうしてこれほど緻密なものが書けるのだろう。ぼくにとって篠田作品は常に、読み始めると止められず、最後まで一気読みさせてしまう力を持っている(とはいえ実際には仕事やら生活のために否応なく中断させられ、結果読み終えるのに数日を要するのではあるが)。
ただ不思議なのは、読んでいる時には確かに引込まれるのだが、読み終えた後すぐに次の作品に貪りつくように手を出す、という程にはのめり込んではいないことだ──今まで好きになった作家は大概、ある一定期間はその作家に入れ込んでそればかり読むというようなことが続いたものだが。本屋で見かければ必ず手に取るだろうが、自分から追い求めたことはなかった。この数年、折りに触れ淡々と読んできた、という具合。なぜだろうと考えて、どうやら篠田作品の持っている冷静かつ現実的なたくましさ(あるいは社会性と言い換えてもいいけど)のせいではないかと思い当たった。ぼくのような隠遁傾向のある人間にとっては、篠田節子の現実性というのは、のめり込むのを拒み、近づき難く屹立する高い壁のようにも感じるのだ。そういえばあの直木賞受賞作さえまだ読んでいないのは、たぶんそういうことなんだろう。
にも拘わらず、好きな作家を10人挙げろと言われれば、篠田節子はまず間違いなくその一人に入っているだろうけどね。
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『アインシュタインの夢』 アラン・ライトマン 浅倉久志 訳 読了。
特殊相対性理論の完成も間近い日々、アインシュタインが、時間の謎に取り憑かれ、我々の世界とは異質な時間を持つ世界についての夢を見る、というフィクション。異なる30の時間を持つ世界は、空想の産物であり、時に(物理学的な)論理の破綻があるとしても、「夢」ということであればそれで納得しておこう。というか、時間と光が密接に関係していることを知っているのは、まさしくアインシュタイン以後の現代の我々であって、時間と光の互いに独立した世界だって、想像することはできるのだ。文章はどちらかというと詩の印象に近い。ただ少々それが綺麗(無毒)すぎるイメージを帯びているように思えて、物足りなく感じた。
それにしてもこういう枠組みの小説には馴染みがある。と読みながら考えて、思いついたのはカルヴィーノの『見えない都市』だった。そうだ、これはカルヴィーノ的なんだ、しめしめ、こいつは"MEMO"のネタになるな、と喜んでいたら、巻末の解説にしっかりと『見えない都市』のことが書いてある。やっぱりみんなそう思うんだね、とぼくだけの発見にならなかったことに結構がっかりしてしまった。いやそれどころか、むしろ順序から言うと、ぼくの方が後からその感想を借用したってことになっちまう。ちぇ。どうしておれはもうちっと独創的なことを考えつかないんだろうな。
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『トムキンスさん』 古川タク 画 ジョージ・ガモフ 原作 読了。
あのガモフの名作(と書きつつ、残念ながらぼくはまだ読んだことがない)『不思議の国のトムキンス』のコミック版。
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『文系にもわかる量子論』 森田正人 読了。
『レ・コスミコミケ』 イタロ・カルヴィーノ 米川良夫 訳 読了。
Qfwfq氏の痛快大法螺話。ビッグ・バンはなぜ起きたのかを語り、時には恐竜の最後の生き残りだったり、色彩の誕生や視覚の誕生、そして水から陸地へと生物が進出した時のことなどを語り、あるいは概念の発明以前の思考を概念発明以後の言葉で語るという矛盾に満ちたアクロバットを演じてみせたり、次々に展開される大嘘が本当に楽しい。科学を素材としてこのような小説的調理を施せるのはカルヴィーノしかいないのでは。
凄いなと感じたのは「恐龍族」の最後のセンテンス。単独で取り出したら何の変哲もないごく普通の文でしかないから、無意味な引用はしないけれど、恐竜の最後の生き残りとしての長い旅の終わりをさりげなく告げるこのような使用は新鮮だった。ある時代と現代とを直結させる茶目っ気たっぷりなこの飛躍は、他にも随所に散見できるけれど、この「恐龍族」の最後がぼくには最も印象的だったのでここに記しておく次第。
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