睡眠歩行者のためのカタログ
THE CATALOG FOR SLEEPING WALKERS [#001]

#001 マネキン

 その朝の通勤電車はいつもより空いていた。それでうまく空席を見つけて座ることができた。七人掛けの座席に六人程度が均等に配列したその配置のリズムを狂わせないよう気を遣い、私は尻をずらして両隣の乗客から等距離に腰を落ち着け、自分の位置・隣人との間隔を鏡面的に確認するために、何気なく前の座席に目をやった。

 乗車した時に目の隅で気がついていたが、丁度正面に若い女が三人並んで座っていた。三人とも淡い色のさっぱりとしたワンピースを着ていて、そのためか、何となくその三人だけが漂白されたように周囲から浮き上がって見えた。服装だけではない。三人とも体型・姿勢・髪形までとてもよく似ており、異様に細長い手足が細い胴から生え出して、行儀よく折り畳まれていた。車内の他の要素から切り離された、亡霊のように薄い存在。違和感にかられて女達の顔をよく見れば、実は三人ともマネキンではないか。あの特有の表情──若干大きめの眼と、それが表象する全く何ものにも焦点の合っていない視線、もしくはあり得ない距離で焦点を結んでいる視線──を顔の中に見つけて、すぐに人形だと悟った。でもどうしてマネキンがこんなところにある(いる?)のだ。いったい誰が連れて来た(置いた?)のだろう。まさか自分で歩いて電車に乗ったわけではあるまい。

 ぎょっとして、思わず周囲の乗客達を見回した。どうやら誰もが皆、明らかにこの異変を無視しているようだった。気付かない筈はないのに、マネキン達の右隣に座ったスーツ姿の男も、私の両隣の中年女性と学生も、皆そこにマネキンが座っていることなど気付いてない振りをしていた。だが彼等の様子には、妙によそよそしく落ち着かない雰囲気が、ありありと見て取れた。平静を装っていても、内心はそうではないのだ。

 私は再び、三体のマネキンに視線を戻した。相手が単なる物体だと判ると、それに向ける視線が奇妙に図々しくなるものだ。私がどれほど不躾に眺めようとも、相手は決して顔もしかめず、文句も言わない。見知らぬ人間同士なら互いに視線を避け合うという暗黙のルールが、非生物に対しては適用されることもない。その筈なのだが、しかし私以外の人間でマネキンを注視している者など誰もいなかった。不思議なことだ。まあそんなことはともかく、私は人形達を見つめながら、この状況についての納得のいく説明を考え始めた。

 そういえば……野生には〈象の墓場〉というものがあるらしいと聞いたことがある。では同様に〈マネキンの墓場〉というようなものもあるのではないだろうか。密林の谷に埋まる夥しい象の骨。暗い谷底に白々と積層する獣骨の映像。これが象ではなくマネキンならきっと、墓場となる場所は取り壊し前のマンションとか廃屋、建設の途中で放棄されたオフィスビル、あるいは廃棄物で作られた埋立地(かつての夢の島は、現在ならどの辺りが該当するのだろうか、今度湾岸地区の埋立計画について調べてみようか)などというのが相応しい。裸の模造人体が積まれ山を形成している場面を私は想像した。無数の首や手や足が渾然一体となってからまり、何か得体の知れない別種の生き物のように固まっている、生々しく蒼褪めた冷たい風景。──これは後から考えたことだが、このような連想を働かせた時点で、既に私の意識は、目の前のマネキン達を生物とも非生物とも明確に扱うことができずに、ただ〈人間ではない何か〉として扱っていたようである。

 およそいかなる意思も意味をも見出せない、そのくせ奇妙に人を惹きつける視線。彼女達はいったい何を見ているのだろうか。ひょっとすると人形達はこの世界の外、我々のあずかり知らない別の宇宙を凝視しているのかもしれない。アルカイック・スマイル。東洋の神秘的な笑み。微笑とは究極の無表情であると何かで読んだことがある。微笑は、それを表している人物が何を考えているのかを蔽い隠し、他者から判断できないようにしているのだ、と。そんなことを考えていると、マネキン達の無意味な視線と無意味な微笑は、見ようによっては恐ろしく深遠な思想を潜めているような気がしてきた。ずっと見つめていた私は、そのうち息が詰まり、苦しくなってきて、視線を外した。

 それまで気付かなかったが、人形達の隣(サラリーマン風の男が座っているのとは反対側)に、やはり若い女が座っていた。人形達とは対照的に黒い服を着て、長く黒い髪(全く染めていない女の髪を見るのは久し振りだ、最近では珍しい)をしている。その黒々と光沢のある髪によって顔が隠され、ただ鼻と口元だけが、真ん中から左右に分けられた髪の間に覗いていた。その女はまるでマネキン達の影ででもあるかのように、ひっそりとその存在を殺しているようにさえ思えた。一瞬、彼女もまたマネキンではないのかと疑ったが、すぐに違うと感じた。生きている。奇妙な言い方だが、しかし確かに「生きている」という実感があった。身じろぎもせず、もしかしたら呼吸さえしていないのではないかとすら思える(そんなバカな)、全く動きのない女の姿勢に、しかしありありと生命の息吹・兆しとでもいうべきものを感じたのだ。燃焼の気配、ということだろうか。疑いなく生命が活動し体温が放出されているという気配だ。黒服の女は確実に生きていた。もしかしたら隣にいるマネキン達に怯えて、それであんな風に固くなっているのかもしれないと思った。たぶんそうだったのだろう。次に停車した駅で、その女は何かから逃げ去ろうとでもするように、降りていった。そんな女の後ろ姿に向かって、マネキンのうちの一体が軽くウィンクしたように見えた。

 やがて私の降車する駅が近づいてきた。彼女達(それともアレら、と呼ぶべきだろうか)がどうなるのか、最後まで見届けてみたいという誘惑に駆られたが、しかし見てはいけないのだという思いも何となくして、迷っているうち、ついに電車は私の降りる駅に到着してしまった。私は数秒間、ぐずぐず躊躇っていたが、ドアの閉まる直前に、結局下車してしまった。背後でドアの閉まる音がした瞬間、何か重要なものを失ってしまったかのような感情が私を襲い、後悔したがもう遅かった。さっき黒服の女が下車した時と同様、私の背中にもまた、あのマネキン達のうちのどれかが、もしくは三体ともが、ウィンクを投げて寄越したのではないだろうか。そんな気がした。

 人形達はあれからいったいどうなったのだろうか。後日、ちょっとした偶然から、私はあの時の黒服の女性と知り合いになった。そして今でも私達は二人で、あのマネキン達の消息を気にかけているのである。

(2003-08)